自由とは何か。
そんなことをたまに考える。
で、行きつくところは、「主体的に生きる」ということろだと思う。
自分はどう生きたいのか。
自分はどうありたいのか。
自分の心と向き合い、対話を続けることによって、自分が理想としている生き方を理解する。
そして、それを実現するためにはどうすればいいのか。
それを考える。
そして、自分が利用できるリソースを使って、自分が理想している生き方を実現する。
僕が考える自由とはそういうことだと思う。
ところが、日本の教育はそういうことを教えてくれない。
日本の教育は、社会に合わせて生きていく方法を教えていると思う。
始めに社会ありき。
社会がどうなっているかを学び、その中で生き延びていくためには、嫌なことも出来るようになる必要があると教える。
つまり、自分を殺して社会に合わせるような生き方だ。
自分と対話をしていたのでは、自分を殺して社会に合わせて生きていくなんてできないからね。
こんな教育をしていたのでは、多くの人は幸せになれないだろう。
始めに社会ありき、では、主体的には生きられない。
社会というのは、そこ合わせて生きていくためにあるのではなくて、自分の理想を実現するために利用するもの。
すなわち、リソースを提供してくれるものだと認識したほうが良い。
社会というモノの解釈を変えるのだ。
「嫌なことをやる」というのは、「自分の理想を実現すためにやらなければいけないことをやる」ということだ。
ただ単に、「誰かにやれと言われたことを文句も言わずにやる」ということとは違う。
嫌なことの先に、自分が欲しい未来があるのかないのか。
そこが大問題なのだ。
「嫌なことはやらなくてよい」と言うつもりはない。
でも、何のためにそれをやるのか、という目的意識はしっかりと持ったほうが良いだろう。
その「何のために」という部分を主体的に決める生き方が「自由に生きる」ということなのだ。
そして、この日本という国はそういう「自由」を保障してくれている。
私たちはとても良い時代に、とても良い国に生きている。
そう、私たちは自由なのだ。
自由の国に生まれたのに、不自由に暮らしている人がなんと多いことだろう。
それは、僕たちが「自由」というものについて、間違えた概念を押しつけられているからだと思う。
自由に対する認識を変えよう。
僕たちは自由なんだ。
自由に生きていっていいんだ。
そのためにどうすればいいのかを考えるのだ。
理想を実現するためには、自分を磨き、周りの人の協力が得られるように、信頼される人物になることが大切なんだ。
それが、自由に生きる方法なんだ。
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