僕らは子どもの頃から、「他人に迷惑をかけてはいけない」と育てられた。
この言葉が呪いとなって、今の日本人を縛っていると思う。
この言葉が、過剰な「自己責任論」に発展して、自分一人で生きていけるようにならなければいけない、誰かに助けてもらってはいけない、誰かのエネルギーを奪ってはいけない、そういう思想を生んでいるような気がする。
そして、この日本社会の生きづらさの原因になっているのではないか。
かく言う僕自身も、誰かに助けてもらうとか、何かをお願いするということがとても難しく感じているし、もっと困っている人を助けてあげられる人になりたいと思いつつ、なかなか、そういう行動に出られない。
この、呪縛の言葉である「他人に迷惑をかけてはいけない」という言葉は、どう受け止めればいいのだろうか。
単純に迷惑な行為とは
確かに、世の中には本当に迷惑な人たちが存在する。
SNSで誹謗中傷を繰り返したり、暴言を吐いて不快な気分にさせる人たち。
道端にたむろして、大騒ぎしている人たち。
爆音を立てて走り回る暴走族など。
はっきり言って迷惑だ。
こういう迷惑な行為は、やはり慎むべきだろう。
誰かに迷惑をかけてそれを楽しんでいるような愉快犯的な行為。
こういう行為をするような人になって欲しくない。
そういう思いから、親や大人たちは、子供大して「人に迷惑をかけてはいけない」と教える。
それはそれで、間違いではないよね。
助けを求めるのは迷惑なのか
しかし、この「迷惑をかけてはいけない」という気持ちが行き過ぎると、困った時に助けを求めたり、何かお願い事をするようなと行為も、「迷惑な行為」なのではないか、と思ってしまう。
相手の時間を奪ってしまう、相手の労力を奪ってしまう。
そう考えてしまうと、相手によっては、あるいは相手の状況によっては迷惑だと感じてしまうこともあるかもしれない。
しかし、その一方で、「困っているなら相談してくれればいいのに」と思っている人も少なくない。
例えば、誰かが困窮して自殺してしまった時に、その人の近くにいた人は「相談してくれれば力になれたのに」と、悔しい思いをするかもしれないし、「自分にも、何かできる事があったのではないか」と自分を責めたりもする。
また、誰かに頼られたり、相談されたりすることが「嬉しい」と感じる人もいる。
ということは、誰かに助けを求めたり、協力を依頼したり、相談することは「迷惑とは限らない」ということだ。
相手を尊重し、誠意をもってお願いすることで、相手を喜ばせることもある、ということだ。
その相談内容にもよるし、相手の状況にもよるし、相手との人間関係にもよる話なのだけれど。
迷惑とは何かをちゃんと考える
結局、「迷惑をかけてはいけない」ということは教わるけれど、「迷惑とは何か」ということを深掘りしていないんだと思うな。
「迷惑をかけられない」と思っていたら、「迷惑ぐらいかけてほしい」と思っている人がいる可能性がある。
いったい「迷惑」とは何なのだろう。
その線引きは簡単なようで難しい。
人間は助け合って生きる動物
一つ言えることは、人間は社会的動物で、集団を形成して生き延びてきたということ。
これは、助け合って生きてきた、ということだ。
決して、一人だけで生きているわけではない。
人に助けられることを「迷惑」とするなら、だれにも迷惑をかけずに生きてくのは不可能なのだ。
「迷惑をかけてはいけない」とするのではなくて、「迷惑をかけずに生きていくのは不可能」だと教えたほうが良いのではないだろうか。
ただ、そう教えると先にあげたような「本当に迷惑な人」や、わがままな人が大量に発生してしまうかもしれない。
そのあたり明確な線引きというか、教育は、もっと丁寧に行わなければいけないような気がする。
まとめ
何が迷惑で、何が迷惑ではないのか。
人に助けを求めるとき、協力を依頼するとき、どこまでならいいのか、どういう頼み方ならいいのか、だれに頼めばいいのか。
この問題は、実はとても高度な問題なのかもしれない。
この人間社会を生きていくうえで身につけなければいけないバランス感覚とも言えるかもしれない。
この、バランス感覚というのが、本当に厄介で難しいのだ。
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