空気を読みすぎて自分の心をつぶしていませんか?

友人男女 人間関係
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友人男女

生きづらさを感じている人の中には、空気を読みすぎる人が少なくない。

昨日のクライアントさんもそう。

場の空気を壊したくないから、自分がいじられて不快な思いをしているのに、不快であることを表明できない。
自分が笑いの種にされることがとても恥ずかしいし、そんなときにどう対処すればいいのかがわからない。
だからいつも、いじられることを極端に警戒している。
警戒しているからとても疲れる。

不快な扱いを受けたら不快だ表明していい

いじりといじめの境目って、とても難しい。

いじる側は単なるいじりだと思っているけれど、いじられた側は笑い飛ばせないくらい傷つくことがある。
そこに、認識の違いある。

自分の許容範囲というのがあって、それは人それぞれに違うのだ。
そして、それは違ってもいいということ。

だからこそ、「いや、それは笑えないから」ということは、ちゃんと表明しなければいけない。
場の空気なんて考えている場合ではない。

僕はそう思う。

もちろん、その表現方法は、自分なりの方法で構わない。
言葉ではっきりと「不快だ」ということ伝えられなくても、態度で示すことはできる。

明らかに不快な表情をする。
黙る。
その場を立ち去る。

そういう方法でも構わない。
自分の心は自分で守ろう。

自分を責めてはいけない

場の空気を壊す自分を責めてはいけない。
自分の許容度が狭いと、自分を責めてはいけない。

いじめといじりの境目がわからない人に、それを教えてあげる必要はある。
教えてあげても、さらにいじってくるようであれば、そういう人とは距離を置く必要がある。

そもそも、そういうデリカシーのないいじりをしてくる時点で、その人が場の空気を壊しているのだ。
それをいじられたあなたがフォローする必要などないのだ。

自分の心は自分で守ろう。
あなたは何も悪くない。

日本人は場の空気を読みすぎる

日本人は場の空気を読みすぎると思うな。
みんなが同じであることを求めすぎるんだ。
それを、同調圧力という。

みんな感じ方も違うし、考え方も違う。
でも、違うということが前提になっていない。

小さいころから「協調性」ということが大切にされている。
もちろん、集団で生活していくうえで「協調性」は大切だけれど、それを大切にするがあまり「多様性」が犠牲になっている。

人それぞれ、みんな違う。
それがベースになっていて、初めて「協調性」というものが大切になってくるのではないだろうか。

違うから話し合わなければいけないし、違うから理解しあうこと、思いやりが大切になってくる。
「多様性」を犠牲にするようなものは「協調性」とは言わないのではないだろうか。

だから、自分の気持ちを素直に表現していいんだ。
それは不快だと。

あいまいな境界線を感覚的にわかるようになることが大人になること

いじりといじめの境界線。
多様性と協調性のバランス。

その違いはとてもあいまい。
人によっても違うし、明確な線引きなどない。

周りの状況や場面によっても違う。
相手との人間関係によっても違ってくる。

そういう境目が、感覚的にわかるようになることが大人になるということなんじゃないかと思う。
みんな失敗を繰り返しながら、その感覚を磨いていく。

ああ、あの時は言いすぎたなとか。
あの時は、自分の気持ちを表現すればよかったなとか。
後から考えて反省を繰り返す。

ああいう時には、こう言えばいいんだ。
こう行動すればよかったんだ。

そういうことを学んでいく。
そして、人間性が磨かれていくんだと思う。

だから、場の空気なんて壊してしまってもいい時もあるのだ。
不快な思いをしたら、不快感を表していい。

それがお互いのためなんだ。
その場にいるみんなの学びになるんだ。

まとめ

自分を犠牲にしてまで、場の空気を守る必要はない。
本当に「良い場」というのは、誰かの犠牲によって成り立つものではないと思う。

自分の心をつぶすのはやめよう。
自分の心を守るは自分。

そして、人生は常に学びの場。
間違いを犯すのもまた人生。

あっちぶつかり、こっちぶつかり、いろいろ学んでいきましょう!

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