協調性という呪縛から放たれよう

肩を組む若者 人間関係
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私たちは、子どものころから一つの呪いの言葉をかけられている。
それは「協調性」ということば。

協調性というのは個人から自由を奪う言葉。
この言葉に縛られて、自由に生きられない、周りの目がに気なる、自分らしくあることに罪悪感を感じる、そういう人が増えている。
また、他人に対しても、自分たちと同じ行動をとるよう強いることになり、自分たちとは違う行動をする人を責めたり、いじめたりするようなことが起こる。

日本は同調圧力の強い社会だけれど、「協調性」という言葉にすることで、何やらいいことのように思う。

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子どもの頃からすりこまれる協調性

日本の小学校では、とかくこの「協調性」という言葉を大切にする。
通知表にはなからずこの言葉が出てくるし、学校生活の中でも、協調性ということがとても大切なことであるかのような教育を受ける。

クラス全員で同じ遊びをする。
より少人数の班に分けて、一つのことを協力してやり遂げる。

確かに、社会的動物である人間にとって、他者と協力して何かを行うということは、とても大切なことであるけれど、それが同調圧力になっていることも否めない。

和をもって貴しとなす

日本は、古来から「和の国」と言われ、みんなと協力していくという意味での「和」という言葉を大切にしてきた。

しかし、これはとても危険な言葉だと思う。

「和」を大切にするがあまり「個」が犠牲になる。
その精神が行き過ぎた結果が、あの「特攻隊」だったのではないだろうか?

「和をもって貴しとなす」という言葉は、とても美しい響きがあるけれど、一歩間違えると自己犠牲を正当化してしまう。

「個」が尊重されるという前提が無ければ、「和」は決して貴いものではない。
そこを忘れてはいけないのであるが、そこをきちんと教えていないのが気にかかる。

「協調性」は危険な言葉

「空気を読む」という言葉がある。
「空気を読めない奴は協調性がない奴」というレッテルを張られ、人間性ができていないという評価につながりかねない。

しかし、組織や集団に新しい考え方や、違う視点を持ち込むのは、いい意味で「空気を読めない奴」だ。
「協調性」という言葉が、「異論を認めない」という圧力につながるようであれば、その組織の多様性が失われ、変化に対応できない原因になりかねない。

また、「協調性」を盾に取られて自己犠牲を強要されるようになると、その人の心は病んでしまう可能性が高くなる。

他人からの評価が怖くて、自分を抑え込んで生きていくことになる。
そんなに窮屈な生き方は無い。

「協調性」という言葉は、使い方を間違えると、その集団にとっても個人にとっても、非常に厄介な言葉になってしまう。

日本人が窮屈そうなのは「協調性」が原因

日本人は真面目だけれど、どこか窮屈そうだ。
幸福度も高くない。

みんながイライラしているせいなのか、怒っている人や攻撃的な人も多い。
ネット上で話題になっている、他人への誹謗中傷などもその表れだろう。

「協調性」や「和」を大切にする人たちが、他人を攻撃するなんて矛盾しているように思うけれども、「個」を押し殺しているフラストレーションが「協調性」を盾にして、他人への攻撃という形で現れるのだと思う。

「個」が尊重されるのが前提

「協調性」が良い言葉であるためには、「個」が尊重されているということが前提条件になる。

一人一人が、個人として尊重されている場合には、集団としての良さが最大限に引き出される。
集団が力を持つには、個人が尊重されていることが前提になる。
しかし、個人の犠牲を強いるようでは、その集団は力を発揮できないどころか、崩壊の危険性すらある。

私たちが「協調性」を考えるときに、この大前提を忘れてはいけないのだ。
この大前提を、日本人は忘れがちだと思う。

まとめ

「協調性」という言葉に縛られて、苦しい思いをしている人は多い。
「協調性」は「個」が尊重されているときにのみ力を発揮する。
その事を忘れてはいけない。

人間は一人では生きていけない。
しかし、個人が犠牲になることがあってはならない。

みんなが助け合って、本当に済みやすい社会を作るなら、「協調性」という呪いの言葉から解放されなければいけない。

そして、まず一人の人間として「個」を確立して自立しよう。
自立した人間が集まって集団を作り、協力し合うことによって、居心地の良い社会生まれるのだ。

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