「他人の目が気になる」という人は多いと思います。
それがストレスになって、社会生活が難しくなったり、生きづらさを感じたりして、それがエスカレートすると、うつ病になったり引きこもりになったりします。
私はある出来事から、「他人の目」とは「自分の目」の裏返しであると気づきました。
「自分が自分をどう見ているか」というセルフイメージによって、他人の目が気になったりならなかったりするということです。
その出来事、というのは、55歳になってからバイクに乗り始めた時のことです。
自分が初心者だと思われたくない
私は、25歳の時に普通自動二輪免許(いわゆる中型免許)を取得したのですが、その後、バイクに乗る機会に恵まれず、30年間ペーパーライダーでした。
そして、30年の空白を経て、55歳の時にバイクを購入し乗り始めました。
ただでさえ、公道を走ったことが無い自分が、しかも30年ぶりにバイクに乗るわけですから、それはもうひどい運転技術です。
バイクを自在に操ることができないので、周りを走っている車やバイクに迷惑をかけてしまうのではないか、という心配でいっぱいでした。
その当時、自分の後ろにほかのバイクが走っているのがとても嫌だったのです。
その理由は、「ああ、この人運転が下手だなあ。」と思われるのではないか?という不安からです。
しかし、いくら初心者とは言え、普通に道路を走っているだけでそんな風に思われるはずもないし、たとえそう思われたところで、本当に初心者なのですから別に構わないわけです。
さらに言えば、後ろのライダーがどう思っているかなんて、私には知る由もないのです。
にもかかわらず、バイクが後ろにつくのがとても嫌で仕方がなかったのです。
「他人の目」は「自分の目」の鏡
その時に気がついたのは、「私自身が、自分のことを、初心者であり、バイクの運転が下手なことを恥ずかしいと思っている」ということです。
自分が自分のことを恥ずかしいと思っているから、他人からそう思われることを恐れていた、ということです。
要するに、「自分が自分に対して考えているように、他人も自分に対して同じように考えるに違いない」という思考がある、ということです。
自分に対する自分の見方、マイナスのセルフイメージが、他人にバレてしまう、他人に見透かされてしまうのを恐れているということです。
いわゆる「他人の目」とは、自分の目を映し出す鏡だったのです。
髪型が決まらないから、それを気にしてずーっと鏡の前にいる人が居ます。
しかし、それを気にしているのは本人だけ、というのは良くある話です。
みんな自分のことで精いっぱいで、他人の髪型の乱れまで気にしていないものですよね。
他人が何を考えているかなんてわからない
「自分が考えていることが見透かされているのではないか。」という感覚を、透明性錯誤と言います。
これは、全くの思い込み(バイアス)なのですが、これを恐れている人は多いものです。
しかし、立場を逆にしみればわかると思いますが、自分が他人の考えていることを見透かすことができるということはありません。
本当に他人が考えていることがわかる人などいるはずがありません。
自分が何を感じているかを、他人が知ることはないし、逆もまたしかりです。
にもかかわらず他人の目が気になるのは、他でもない自分自身が自分をネガティブに評価しているという裏返しなのです。
他人の目を気にしなくなるためには
人間だれしも、長所と短所を持っています。
長所だけで短所が無い人などいないわけです。
そんな完璧な人など、この世の中には一人もいません。
自分の短所を殊更に気にして、それがバレてしまうのではないか、それが原因で失望されたり軽蔑されたりするのではないか、と考えるのは、自分自身が自分の短所を恥ずかしく思い、自分を低く評価しているからです。
他人の目を気にしないようになるには、その非合理的な考え方を修正して、自己評価を見直す必要があります。
人はみな、不完全で、弱くて、頼りないものです。
しかし、だからこそ常に成長を続けている発展途上にあるということもできます。
同じ状態でも、見方によってイメージは変わってきます。
自分が自分を見るその見方を変えていくことによって、他人の目が気にならなくなるのです。
自己評価が変われば良いのです。
先に上げたバイクの話ですが、「誰でも初心者だった時はあるんだから、別にそれは恥ずかしいことではない。」と考えを改めることで、後ろにバイクが付くのは気にならなくなりました。
そのうえ、練習を重ねることで、ある程度、バイクの運転にも自信を持てるようになり、今では全く気にならなくなりました。
まとめ
他人の目は、自分の目の鏡です。
「自分が自分をどのように見ているか」を映し出しているのです。
そう考えることができれば、修正することが可能になってきます。
なぜなら、自分の考え方を変えればよい、ということだからです。
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