「迷惑をかけてはいけない」という教育は間違えているのではないか?

教育ママ エッセイ
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僕自身の悩みとして、「他人に甘えられない」「助けを求められない」という問題がある。
この問題は、この歳になっても根強く残っている。
困っていても、問題を抱えていても、誰かに弱音の吐いたり、助けを求めたりできない。
どうしてこうなのか。
思い当たるのは、「他人に迷惑をかけてはいけない」という教えのような気がするのだ。

同調圧力の原因?

日本においては、「他人に迷惑をかけてはいけない」と、子どもに教えるのは一般的だと思われる。だからこそ、同調圧力が強いのではないか。みんなと足並みをそろえることが求められ、それを乱すものは迷惑な存在として認識される。誰にも迷惑をかけずに、一人で生きていけるようになることこそが、日本人がイメージする大人像。完璧に独り立ちすることを求められる。

政府の政策に対して異議申し立てをしたり、デモを行って抗議をしたりする人が少ないのも、「足並みを乱すものは迷惑な存在であり、人としてあるまじき行為である。」と感じる人が多いからではないだろうか。単なる僕のうがった見方なのかもしれないが。

教師の息子

僕の父は高等学校の教師だった。母方の祖父は、戦前の尋常小学校の校長先生だった。僕が生まれ育った家庭は教師一家だった。そういう意味でも、四角四面の真面目な子育てが行われたのではないかと思っている。他人に迷惑をかけるような大人がいた時など、その人を非難することで私たち子どもに対して「あのようになってはいけないのだ」という感覚を植え付けたのではないだろうか。その教育の成果か、僕は他人に助けを求めることがとても苦手なのだ。「こんなことをお願いしたら迷惑かもしれない。」そんなふうに考えてしまうからだ。

助けを求められる人になりたい

しかし、世の中には、実に軽やかに他人に対して様々なお願いをする人がいる。助けを求める人がいる。それでいて、嫌われている風もない。助けを求められた方は、むしろ「頼ってくれてうれしい」とすら思っている。そういう人たちはどのような教育を受けたのだろうか。それとも、大人になってから身に付けた技術なのだろうか。僕も、そういう人になりたいものだ。

人間は助け合って生きている

心理学を学んで思うのは、人は一人では生きていけないということ。そもそも、一人だけではか弱い人類が、生存するのが厳しい野生を生き残ってこれたのも、集団を作って力を合わせたからだ。それが社会的動物と言われる所以だ。つまり、助け合って生きていくのが人間の生き方だ。助けてほしいときは助けてもらい、助けを求められたら助ける。それを迷惑だなんて考えない。それが人間の本来あるべき姿ではないだろうか。

外国では「迷惑をかけてはいけない」ではなく「他人に親切にしなさい」と教えられると聞いた。迷惑をかけるというマイナスを避けるのではなく、親切にするというプラスを行う。向いている方向が正反対だ。多くの人が「親切にしなさい」と教えられている世界のほうが、支えあう感じがあって居心地が良いのではないだろうか。そんな風に感じてしまう。

そういえば、日本人は親切にされると「すいません」という人が多い。これも「迷惑をかけてしまった。申し訳ない。」という感覚からではないだろうか。素直に「ありがとうございます。親切にしてもらってうれしいです。」と思えるようになりたいものだ。

やっぱり、「迷惑をかけてはいけない」という教育は間違えているような気がする。

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