先日、ある方をお話をしていて、ちょっと気になったことがあったんだ。
その方、動悸と不安感に悩んでいて、その原因として思い当たるのは、仕事で人前で話さなければならないことが続いて、そのストレスが重なったのでは、ということだったんだよね。
で、その仕事に転職したのは三年前で、人前で話をする機会が多いことはわかっていて、自分は人前で話をするのが苦手だったんだけど、それを克服しようと思ってあえて転職をしたと。
最近ようやく慣れてきたかと思っていたんだけど、やっぱり、それが続くとダメなんだと思った、っていう話をしていたんだよね。
それで、ふと思ったんだけど、「どうして苦手を克服しようと思ったんだろう?」ってこと。
もしカウンセリングだったら、そこを聴いてみたいなあって思ったけど、別にカウンセリングをしていたわけではないので、特にきかなかったんだけどね。
苦手を克服しなければいけないという思い込み
「苦手を克服しなければいけない」という話をする人は結構いて、その思いが自分を精神的に追い込んでいるケースは多いと感じている。
これは、日本の間違えた教育の弊害だと思うんだよね。
子ども頃から、苦手を克服していく事が成長することである、っていうことをすりこまれているなあって思う。
例えば、僕の小学生の娘も、人前で話をするのが苦手なんだけど、先生と面談すると必ず言われるんだよね、「もう少し自分の意見をみんなの前で言えるようになれるといいですね」ってな具合で。
でも、家庭にいるときはガンガン言っているんだよ。
クラスでは、ほとんど発言をしないらしいんだけど。
先生というのは、必ず言うんだよね、「もう少しここを伸ばしたらいいですね」って。
なんか、その子の足りないことを指摘して、それを克服していく事が成長することである、という風に錯覚しているんじゃないかと思う。
で、そういうことを言われると、親もそうかなあって思って、家庭でもそういう話をするようになるでしょ。
そうなると、真面目な親や真面目な子どもはそれに従おうとするよね。
苦手なことを克服していく事が、成長することだって。
減点法の落とし穴
受験はそれに拍車をかけるわけ。
学校のテストや受験というのは、減点法で採点される。
満点があって、そこからどれくらい間違えたか、で判定されるわけだ。
この採点方法だと、一つの科目で獲得できる点数には限りがある。
どんなに数学が得意でも、数学で獲得できる点数は100点まで。
数学に時間を注ぎ込んでも、100点以上は取れない。
だったら、伸びしろがある苦手な英語に時間を費やしたほうが、内申点も伸びるし、合格の可能性が上がるわけだ。
だから、やっぱり苦手克服のために時間を費やすことが必要になるよね。
かくして、苦手を克服することが大切だ、という思い込みが強化される。
社会では得意技で評価される加点法
ところが、仕事を任されるのは、大抵の場合得意分野だよね。
「あいつは、この分野に詳しいからこの仕事を任せよう。」という話になる。
まんべんなくそつなくこなす人よりも、何らかの能力に秀でた人のほうが社会では重宝される。
一つの分野で点数を伸ばせば伸ばすほど、その人の評価は上がっていく。
つまり、満点というものはなくて、つまり天井はなくて、どんどん加点していく事ができる。
社会は加点法で動いているということだ。
だったら、その人の強みが発揮できる仕事をやったほうがよくないだろうか。
それなのに、わざわざ、苦手なことをやる必要ってあるんだろうか?
苦手なことをやって苦しむ必要はない
苦手なことを克服しようとすることは苦しい。
楽しくない。
だって、苦手なんだから。
ところが、まじめな人はそれをやろうとする。
なぜなら、無意識のうちに刷り込まれているからだ。
苦手は苦服しなければいけないと。
どうしてそんなことをする必要があるのか。
まずはそこから、考えてみる必要があるのではないだろうか?
まとめ
苦手なことは避けて通ってもいい。
得意なことで勝負すればいい。
人生って、そういうもんだよね。
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