最近、うちの息子がよく「なんで学校に行かなくちゃいけないんだよ」って言う。
どうやら、学校が楽しくないらしい。
授業が苦痛らしい。
今日の記事は、この問題について考えてみたいと思う。
結論から言うと、「学校は義務的に行かなければいけないところではない。」と僕は考えている。
行きたくなかったら行かない。という選択肢があってもいい。
どんな人も、子どもであっても、やりたくないことを強制的にやらされるということがあってはならないと僕は思う。
常識から離れよう
まず、大切なのは、常識から離れること。
常識から離れて、自分の頭で考えること。
学校は行かなければならない。
不登校は良くないこと。
学校を休むのは悪いこと。
少々無理をしてでも、学校に行ったほうがいい。
こういう常識から離れて、ゼロベースで考えてみることが重要だ。
子ども本人もそうなのだけれども、周りの大人達がこういう常識にとらわれていると、子どもに対してもこの常識を押し付けるようになる。
子どもが「どうして学校に行かなければいけないのだろう?」という疑問を持つことに対して、頭ごなしに、「学校は嫌でもいなければいけないの!当たり前でしょ!そんなこと!」と言ってしまっては、子どもは納得できない気持ちを抱えながらも、「当たり前なのか~」と、それ以上考えなくなってしまう。
学校は勉強を教えてくれるところ
なぜ学校に行くかといえば、勉強を教えてくれるからだ。
これに異論はないだろう。
なぜ、勉強が必要かといえば、社会で生きていくために必要な知識や技能を身につけるためだ。
子どもたちは何も知らない。
だから、生きていくために必要な知識や技能を身につけることは大切なことだ。
しかし、今の時代、自分がその気になれば自分で学ぶことは可能だ。
本もある、グーグル先生もいる、ユーチューブもある。
学校の先生ではない周りの大人達だって、自分が知っていることを教えることはできる。
やろうと思えばできないことはない。
じゃあ、なんで学校に行くかといえば、楽だからだ。
自分でやるのは大変な労力と、自己管理能力が必要になる。
しかし、学校に行けば、すでにカリキュラムが用意されていて、専門の先生が親切に教えてくれる。
公立の学校なら費用は殆どかからない。
こんなに素晴らしいシステムを利用しない手はないだろう。
逆に言えば、「それでも嫌なら自分でやればいい」ということになる。
学校に行かなくても、自分が将来、生きていくために必要な力を身につけることができるのであれば、無理に学校に行く必要はない。
多様性の時代の生きるチカラとは
そこで問題になるのが、「生きるために必要な力とは何を指すのか」ということだ。
果たして、現在の学校のカリキュラムは、生きていく力を与えてくれているのか。
この問題は難しい。
なかなか答えの出ない問題だ。
今の時代は、変化が激しい。
学校のカリキュラムがこの変化に対応できているかといえば、かなり怪しいと思っている。
英語教育についても、何年学んでも会話ができるようにならない。
パソコンやタブレットPCなどの使い方を学ぶ機会も少なすぎる。
インターネットの危険性はしつこく教えるけれど、その有効な使い方については教えてくれない。
経済や投資、ビジネスのことは全く教えてくれない。
政治に関してはタブー視していて、本質的なことは何も教えてくれない。
これで果たして、これからの時代を生きていくための必要な力を教えていると言えるのかどうか。
僕は、この変化の激しい時代に生きていくためには、柔軟な発想力だと思っている。
変化についていく、変化に対応していく対応力だ。
しかし、未だに「学校は行かなければいけないもの」という、旧態依然とした考え方にとらわれている時点で、柔軟な発想などできないのではないだろうか。
社会性が身につくのか
「学校に行くことで、集団生活とか社会性が身につく」という意見も多い。
しかし、この問題についても、では「社会性とはなにか」と深く考えて見る必要がある。
そもそも、社会には多様な人たちが存在している。
しかし、学校には、基本的に同じ年齢の人たちだけがいる。
学校は、いわゆる一般の社会とはかけ離れた「特殊な社会」だと言える。
はたして、この特殊な社会で生きて行けるようになることが、普遍的な多様性を持つ社会で生きていく力を養うのだろうか?
学校は閉鎖的な特殊な社会である。
この、特殊な社会に馴染めないからと言って、普遍的な多様性を持つ社会に馴染めないとは言い切れない。
むしろ、多様性のある一般社会のほうが、その人の居場所を見つけやすいだろう。
しかも、現在ではネット上にも集団が形成されて、社会が生まれている。
ネット上においても、社会性を育むことが可能な世の中になっている。
ネットは物理的な距離の問題がないので、地球の裏側にいる人とも関わりを持つことができる。
むしろネットほうが、より広い世界を体験することが可能になるのだ。
学校に行かないからと言って、友だちができないとか、社会性が身につかないという時代はとっくに終わっているのではないだろうか。
学校は自分の幸せを追求するために利用するところ
インターネットが無かった時代は、学校は社会性を育み、友だちを作り、勉強を教えてもらえる貴重な場だったのは間違いない。
この社会性の問題についても、ネットの発達に伴って選択肢が格段に増えたのも事実だ。
前にも書いたように、カリキュラムを用意してくれて、先生が丁寧に教えてくれて、ほぼお金がかからない施設としての学校は、利用価値が高いのは間違いない。
だったら、利用しない手はないと考えることもできる。
つまり、義務的に無理やり行かなければいけない場所ではなくて、利用価値が高いから自分から能動的に選択して行く場所、と考えられるということだ。
逆に言えば、他にも選択肢があるならそちらを選択しもていいのだ。
とはいえ、日本はまだまだ選択肢が少ないのが現状だ。
選択肢が少ない上に、「学校は行かなければいけないところ」という常識に縛られている大人が多いことも問題だ。
こういう大人が多いから、子どもたちに対して「学校に行かなければいけない」という圧力が強くなる。
ところが、圧力をかけられればかけられるほど、強制されれば強制されるほど、ストレスを感じるし行きたくなくなるのが人の心というものだ。
反抗期の子どもたちの心理はなおさらだ。
人の心理とは実に厄介なのだ。
外国を見れば、実に、豊富に選択肢が用意されているところもあるし、大人たちの発想も柔軟だったりする。
そういうわけで、同調圧力も日本ほど強くはない(ところもあるだろう)。
まとめ
学校に対する僕の考え方を書いてみた。
最後に、「勉強は楽しいものである」ということを学校では教えてほしいと思う。
知らなかっことを知る喜び、楽しさ。
それを感じることができた子は、自主的に勉強をするようになる。
自分が知りたいと思うことを自分で調べて学ぶ。
それができる世の中になっている。
それを続けていけば、生きるチカラが自然と身についてくる。
僕はそう考えている。
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