今日は3月11日。
東日本大震災からちょうど10年がたった。
当時僕の子どもたちは、6歳、3歳、3か月の双子の四人。
子どもたちがまだまだ小さかった。
長男は、4月から小学生になるという時。
生まれたばかりの双子はまだまだ小さく、ひ弱な存在だった。
おむつもミルクを作るための水も手に入りにくくなった。
本当に心配だった。
福島の原子力発電所が事故を起こして、僕が住んでいる東京にも少なからず影響が出た。
毎日、モニタリングポストの線量を確認していたのを思い出す。
子どもたちに何かあったら、親の責任だと思った。
移住することも真剣に考えた。
本当に、吐き気がするほど悩んだ。
そんな中、ひょんなことから、当時衆議院議員だった田中康夫さんから、整体師を被災地に派遣するボランティアをやりたいという相談を受けた。
当時僕は、整体専門学校で講師をしていたし、その学校のOB会の会長だったので、その相談を受けたのだ。
当時の生徒さんや卒業生に声をかけて、定期的に被災地に行くことになった。
自分にも何かできないか、と思っていた人たちが沢山いたので、いろいろな方に参加していただいた。
僕たちが言ったのは、ほとんどが南相馬市だった。
一度だけ、気仙沼市にも行かせていただいた。
最初の頃は、まだ仮設住宅が出来ていなかったので、小学校や中学校の体育館や、公民館などの避難所を訪れた。
夏が来る頃に、ようやく仮設住宅ができて、避難所ではなくて仮設住宅に行くことになった。
整体は一人30分くらいずつの短い時間だったが、皆さん喜んでくれた。
そして、いろんな話を聴かせてくれた。
普通の人生では想像もできないような、壮絶な体験をしている方が多かった。
また、原発に対しても、いろいろな話を聴かせてもらった。
現地に行ってみると、人それぞれ、感じ方や考え方が違う。
みんなが同じ意見ということはないということがよくわかった。
ただ、一つ言えることは、気仙沼の人たちとは違い、南相馬市の人たちは原発問題という大きなものを背負ってしまったということだ。
故郷を汚染され、奪われた上に、将来の見通しが立たないという状況に追い込まれていたということ。
南相馬市に向かう途中で、飯館村を通っていった。
当時の飯館村は、通ることはできたのだけれど、住むことはできない状態だった。
人影が消えた村の中。
綺麗な田んぼだったであろう場所は、雑草に覆われていた。
とても悲しい光景だった。
福島について、いろいろな言葉がネット上で飛び交っているのを見るけれど、僕みたいな部外者が外側で好き勝手なことを言って、論争していることが馬鹿らしく思える。
本当に被災者に寄り添った発言なのだろうか。
被災者にもいろんな立場の人がいて、みんな意見が違うし、受け止め方も違う。
いろんな言葉に真剣に耳を傾ける必要があるんじゃないだろうか。
ネット上での論争を見るたびに、そんなことを思う。
原発は怖い。
その怖さを忘れてはいけないと思う。
もちろん、地震も怖い。
備えなければいけないと思う。
10年目の節目に、いろいろと考え直してみるべきだろう。
そんなことを思う朝です。
初めて被災地に行った時のブログ記事が出てきた。
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