なぜ日本人は窮屈そうに生きている人が多いのだろう

行きかう人々 エッセイ
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僕はもうずいぶん昔から疑問に思っていることがある。
それは、どうして日本人は窮屈そうに生きている人が多いのか、ということ。

それはもう、高校生くらいのころからずっと思っていること。
それがどうにも、不思議でならない。

日本は素晴らしい国なのに

日本という国は、とても素晴らしい国だと思う。
自然は豊だし、食べ物は美味しいし、治安も良い。
人々は穏やかだし、教育水準は高いし(上を見ればきりがないけど)、高度医療が健康保険を使えば格安で受けられる。
もちろん、不満も沢山あるのだけれど、歴史的に見てもかなりいい状態にあると思う。

にもかかわらず、メンタルを病んでいる人は多い。
最近では、どこのメンタルクリニックも患者が殺到していて、新患を受けれる余裕がないところが多いという話を聞く。
若者の自殺が多く、諸外国に比べて将来に希望を持てない人の割合が飛びぬけて高いという調査結果もあるようだ。

僕自身もかつてうつ病を患い、それ以来ずっとこの問題について考えている。
どうすれば、多くの人がもうちょっと楽に生きて行けるようになるだろうか。
そのためには何をすればよいのだろうか。と。

しかし、まだわからない。
何が原因でどうすればよいのか、はっきりしたことは言えない。

教育に問題があるのではないか

ただ、ぼんやりとではあるけれど、教育に問題があるのではないか、という可能性は考えている。
もちろん、学校だけの問題ではなくて、社会全体としての「教育というもの対する考え方」が良くないのではないか、ということだ。

日本における教育の最終目標が、「社会の役に立つ人間になる」ことを目指しているのところが問題なのではないか、疑っている。
それは、教育基本法にそう書かれているからだ。

教育基本法の第一条は、「教育の目的」として、こう書かれている

第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

「国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた」人になることが、教育の目的であると書いてあるのだ。

ここを読んだだけでも、僕自身は窮屈さを感じてしまう。
要するに、「国家や社会のために役に立つ人になれ」と言われているのだ。

自分の幸せを追求すればいい

でも、僕はこう思う。
「自分の幸せを追求できるようになる」ことが大切なんじゃないかと。
人間の幸せって、結局自分一人だけでは達成することは難しくて、自分の周りにいる人たちも幸せになってもらったほうが、より幸せを感じられると思う。
言い換えれば、自分の周りの人たちを幸せにできるような人になることが、自分を幸せにしてくれるということだと。
これが結果的に「社会の形成者として必要な資質を備えた」人になるということになるのではないか。
あくまでも結果論として。

だから、教育の目的は「自分を幸せにできる人になること」とした方が良いのではないかと思うのだ。
そして、国家や社会は、個人を幸せにするために存在するのではないかと考える。
個人が幸せになるために、国家や社会が存在するのではないか、と思うのだけれど、どうだろうか?

一人はみんなのために、みんなは一人のために

国家や社会のために個人があるのか。
個人のために社会や国家があるのか。
この感覚の違いは大きい。

僕は高校時代にラグビーをやっていたのだけれど、ラグビーの精神性を表す言葉として、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という言葉がある。
どちらが正しいということはない。両方正しい。

しかし、教育基本法には、個人は社会のためにある、という方向性しか書いてないように読めるのは、僕の読解力の問題ではないと思うのだけれどどうだろうか?

自分の幸せと周りの人の幸せ。
これは両立するものである、ということをちゃんと教えているかと言われれば、果たしてどうだろうか?と考えてしまう。

我慢して社会に合わせる必要はない

受験戦争などという言葉があるが、この経験を通して、勝つか負けるか、食うか食われるか、という感覚が身につく。
いわゆるブラック校則で理不尽に自由を奪い、理不尽に飼いならされることを教えていないだろうか。
自分を犠牲にして、我慢して、周りに気を使うことができるようになることが、社会に出るために必要なことであると教えていないだろうか。

こういう価値観を植え付けられたら、窮屈な社会観を持ってしまっても不思議ではない。
自由に人生を謳歌することが、わがままで幼稚な振る舞いであるという感覚を身に付けてしまう人が増えてしまうのではないかと考えてしまう。

このあたりに「将来に希望が持てない」「生きづらい」と感じて苦しむ人を増やしているような気がするのだ。

自分の人生なんだから、自分の幸せを最優先に考えていい。
でも、自分が幸せになるためには、自分の周りの人たちも幸せな方が良い。
そういう教育は出来ないものなのだろうか。

僕はそんなことを考えている。

コメント

  1. 小林三輝也 より:

    を読ませて頂きました。日本の教育で、「社会に役立つ人間になれ」と、強制されていることが個人の閉塞感を生んでいるように思います。

    しかし、教育基本法が悪い訳ではありません。外部に原因を求める「考え方」や「文化」に問題があるように思います。特に、日本人は古来、自然と共生して自らを生かして幸福な社会を形成してきました。

    戦後、日本人が不幸感を増してきたのは、経済的に発展し、便利な社会になり、都市化・分断化が進んだため、自然と共生した豊かなコミュニティを失ったからだと思います。これは、多くの先進国で起きている現象で、物質的には豊かになるがこころが貧しくなるためです。

    私は、日本人が幸せになれないのは、まだ日本は未成熟な社会で、日本人のこころが未熟だからだと思います。また、教育に於いても、こころが未成熟な先生が生徒を指導しているがゆえに、子供たちの自立を抑制しているように思います。

    この問題の本質は、人間の本質を知り、複雑な要因で成り立っている因果応報の全体システムを理解・体得して、人の生き方を考える哲学にあるように思います。

    今の社会が「生きづらさ」を抱えていることは事実で、その「生きづらさ」を抱えている若者も増えているのも事実だと思います。それを改善するには、もう一度、日本国のあり方や日本人としての生き方をもっと問い続ける社会にならなくてはならないのではないかと思います。

    その為には、渕脇さんが活動している「人生の学校」にもっと若者が集うことが、少なくとも幸せな社会を切り拓く第一歩になるのではないかと思いました。

    • 小林さま
      とても丁寧なコメントを頂きありがとうございます。
      人の幸せとは何か、という問題について、いろいろな人と意見交換をしてみたいと思いました。
      とくに、若い人たちと対話してみたいですね。

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