登戸無差別殺人事件について-防止策を考える

ストレス エッセイ
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ストレス

この話題をブログに書くべきかどうか。
書くなら、どのように書けばいいのか。

今日は朝らかずっと考えていたんだけれども、なんだか書かなければいけいないような気がして、頑張って書こうと思う。

結論から先に述べると、社会的に追い詰められる人を減らすことが、この手の犯罪を減らすうえでとといても大切なのではないか、ということ。

この事件で、二人の尊い命が奪われた。
私にも小学生の子どもがいるので、犠牲になった方のご家族の心痛を思うといたたまれない。

このような身勝手な犯行は許されない。
どんなに追い込まれても、他人を巻き添えにするなど許されないことである、ということは当たり前の大前提として、読んでほしいと思う。

私の印象に残っている大量無差別殺人事件

私がうつ病でメンタルをやられている頃(1999年)に、下関駅構内において無差別殺人事件が起きた。

なぜ、この事件のことを私が強く覚えているかというと、私自身がメンタルを病んでいたということもあるけれど、この事件の犯人が九州大学を卒業し一級建築士という資格を持ったエリートで、しかも私と年齢が近いということもあって、印象に残っている。

きっと、この犯人も、それまでの人生を彼なりに懸命に努力をしてきたはずだったのに、どこかで歯車が狂い始めて、このような凶行に至ったのだろう思った。

そして、このようなことは、自分の身にも起きうることなのではないか、と、メンタルがどん底だった自分に重ねてしまったことが、この事件に対する印象の深さになっている。

下関通り魔殺人事件(ウイキペディア)

つまり、人は精神的に追い込まれると、このような狂気を内側に宿しかねない。
そういう可能性は誰にでもあるのではないかと、この時に思ったことを覚えている。

その後の無差別大量殺人事件

その後、2001年の大阪教育大学付属池田小学校事件、2008年の秋葉原事件など、世間を震撼させた無差別大量殺人事件が起きた。

それぞれの犯人像やその背景などは、どの事件もそれぞれに背景が異なっている。

しかし、共通しているのは、「何をやってもうまく行かない」という思いを抱いていること、孤独であること、自分がうまく行かないのは社会のせいであると思っていること、その社会に対して復讐し、社会の歪みを大衆に認めさせ、さらに自分の存在を世に知らしめるという、強い決意をもって実行されているということが共通しているように、私には思える。

これは、あくまでも私の私見であるけれども。

付属池田小事件(ウィキペディア)

秋葉原通り魔事件(ウィキペディア)

このような事件を未然に防ぐのは難しい

池田小学校の事件の後には、学校の警備体制が強化された。
確かに、あの事件は「学校」という閉鎖された空間で行われたので、このような対応が可能だったのだと思う。

しかし、今回の登戸の事件や秋葉原の事件などは、人通りの多い場所で白昼堂々行われている。

自分が死ぬことや、捕まって死刑になることを覚悟のうえで犯行に及んでいることから、「人目がある」ということが犯罪の抑止力になっていない。

このような犯人に、背後からいきなり刺されてしまったらまず防ぎようがない。
これを事前に察知して、身をかわすことができる人はいないだろう。

いったいどのように対策をすればいいのだろうか?

テレビなどでは、対策方法をいろいろな専門家が意見を出すだろうが、有効な対策方法があるとは考えにくい。

追い込まれる人を減らす

一つの方向性としては、これらの事件を引き起こした犯人のように社会的に孤立して追い込まれていく人を減らすことが考えられる。

もちろんこの方法は、100%犯罪を防げるというようなものではないし、どの程度の有効性があるのかという実証も難しい。

そして、具体的に何をすればいいのか、という問題についても、決定的な有効な手段があるというわけでもない。だからと言って、手をこまねいているわけにもいかない。

誰でも良かった。
死刑になるためにやった。

こういう犯行を減らしていくために、何をすればいいのか。
みんなで知恵を出し合う必要はあると思う。

今回の登戸の事件の場合、犯人は自殺してしまったわけなので、その犯行動機の解明は難しいかもしれない。
しかし、過去の無差別殺人事件の犯人の動機を調べていけば、何らかの防止策が浮かんでくるのではないかと思う。

もちろん、この分野の素人の私がこのような記事を書いても説得力に欠けることは重々承知の上で書いている。

カウンセラーとして考えること

私はカウンセラーの端くれなので、カウンセラーという立場から、いろいろと考えることはできる。

特に、今の日本に蔓延している「自己責任論」が、追い込まれる人を増やしているのではないかと思うことはある。

努力を続けていても報われない人や、不運が続いて苦しいところに追い込まれていく人はいる。
また、適切な支援が受けられれば、苦しいところから抜け出すきっかけをつかむ人もいる。

すべてを自己責任で片づけるのではなくて、助け合い支え合うような社会を作っていくことで、このような悲劇を減らしていくことができるのではないか、と考えている。

もともと、人は助け合って生きていく動物だと思う。
弱者にやさしい、不運な人を助ける、みんなで支え合うような空気を、社会が作ることができれば、このような犯罪の抑止につながるのではないかと思う。

追い込まれる人を減らす社会をつくろう

追い込まれる人を減らす。
追い込まれた人を救い出す。

そのためにはどうすればいいのか。

システムの問題も、思想の問題も、教育の問題も、経済の問題も。
あらゆる角度から総合的に検討しなければいけない、とても複雑で深い問題だと思う。

それと同時に、この社会で暮らすすべての人にとって住みやすい社会とはどいう社会なのか、という問いに対して考え続けることが必要なのではないかと強く思う。

今の日本は、自殺者が多い、精神疾患が多い、貧困が多い、決して生きやすい社会とは言えない。

生きやすい社会を作ることがこの手の犯罪を減らすうえで不可欠だと思うだけれど、どうだろうか?

まとめ

非常に痛ましい事件が起こってしまって、暗澹たる気分でいる。
このような事件は、もう二度と起こってほしくない。

この社会に生きる我々が、知恵を出し合って予防に努めるしかない。

もちろん、絶対に防げるという特効薬はないけれども、こういう事件の起こらない社会を作る事をあきらめていはいけないと思う。

もちろん、私の意見は理想論だと批判する人もいるだろうけれど、「理想にどこまで近づけるか」という姿勢は忘れてはいけないと思う。

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