人を型にはめるのをやめよう

海辺女性ジャンプ エッセイ
Photo by Artem Beliaikin on Unsplash
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海辺女性ジャンプ

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僕は、整体師として人間の身体の構造について勉強してきたし、いろんな人の身体を触ってきた。
そして、心理カウンセラーとして、人の心理を勉強してきたし、いろんな人の悩み事を聴いてきた。

その僕が強く感じるのは、人間は自然の産物であって、工業製品ではないということ。

だから、一人ひとり、すべて形も違うし、能力も違うし、考えていることも違う。
そして、それがどのような形になるのかは誰もわからない。
自分さえも。

人の苦しみは型にはまろうとする苦しみ

これは、今の日本の社会の特徴なのか、人間の特徴なのか解らないけれど、他人をすでにある「型」にはめて安心しようとする人も多いし、自分が「型」はまろうとすることで安心しようとする人も多い。

他の人と一緒であるということが、安心できるという心理はわからないこともない。

そのほうが社会生活がやりやすいし、社会に受け入れてもらいやすい。
周りの人からすれば、扱いやすいからね。

でも、本来、自然の産物である人間は、他の人と全く同じという人はいない。
みんな違うし、どうなるかは誰にもわからないしコントロールできない。
もちろん自分にも。

それを無理やり、既成の「型」にはめ込んでいく作業が「教育」だったり「成長」だったりすると勘違いしている人が多いのじゃないかな。

でも、それが苦しみの根源になっていると、僕は思っている。

無意識にある型とは

無意識のうちに型にはまろうとしていると書いたけど、それにはどんなものがあるのか。

わかりやすい例としては、「男らしさ」とか「女らしさ」という言葉がある。

この型にはまりきらなくて苦しんでいる人たちがいる。
性同一性障害などと病気のように言われているけれど、それは本当に病気なのだろうか。

ただ、型にはまらないだけなのではないか。

参議院議員選挙にれいわ新選組から出馬した、女性装の東大教授の安冨歩氏の演説を聴いていてそんなことを考えた。
安冨氏は性同一性障害は存在しないと言っている。
存在するのはそういう定義(私のいう型)のほうであって、それは障害ではないという考え方だ。
また、差別は差別する人がいて初めて存在するのであって、差別される側には何の問題もないとも言っている。

差別もまた、人を型にはめることから始まる。

日本の教育は型にはまる人を育てる教育

私には4人の子どもがいて、まさに4人とも学校に通っている真っ最中なのだけれど、日本の教育はまさに型にはめる教育であるということを強く感じる。

そういう教育を受けた人たちが大人になって、型にはまることが大人になることであるという認識を持つ人が大量に存在する社会を作り上げている。

そういう社会では、型からはみ出した人間を排除しようとする。
なぜなら、型からはみ出した人間がいると、社会が円滑に回らないという教育を受けているからだ。

それが差別を生むと私は思っている。

人間の型など存在しない

人間は自然の産物であるから、そもそも「型」など存在しないし、「型」にはまる必要もない。
そういう前提の社会を作る必要があるのではないか、と僕は思う。

そうすれば、一人ひとり違うのが当たり前ということになる。

一見非効率のように見えるけれど、多種多様な才能をもった人たちが集団となった時には、そいういう社会のほうが強いのではないかと思う。

多様性のある社会のほうが生きやすく、一人ひとりがイキイキと暮らせる社会なのは間違いない。

まとめ

自然の産物である人間が、型にはまろうとすることはとても窮屈で苦しみを伴う。

一人ひとりが、自然な状態でいられる社会を作り上げることが、幸せな人を増やすことになると思う。

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