生きづらい日本の社会を変えたい

仲間女性
Priscilla Du Preez

僕が経営している東大和市のあおぞら整体院は、「幸せになれる整体院」をキャッチフレーズにして、心理カウンセリングを受けられる心の問題に強い整体院として営業している。

僕自身が、かつてうつ状態を経験していることもあるし、院長の三縄先生もうつを経験している。

その経験を活かして、心が潰れてしまった人、また、今にも潰れてしまいそうな人たちに対して、いろいろな支援を行っている。

こういう整体院なので、当たり前だけれども、心病んでいる人たちのお話をうかがう機会が多い。
そういう人たち話を聴いていて思うのは、自分で自分の首を絞めているということ。
そして、その原因は教育にあるのだということを実感として感じる。

教育が目指している「あるべき姿」が間違っている

教育と言っても、学校教育もあるし、家庭での教育も、会社での教育もあるのだけれども、社会全体として理想的な大人像としての「あるべき姿」の概念が間違えていると感じる。

日本社会でたまに聞かれる「自己責任論」もそうだけれども、教育の目標として語られる「自立した人」像がそもそも間違えているのではないかと感じる。

完璧な大人を目指して、すべて自分一人でこなすことができる人間こそ、目指すべき「自立した人」である。
そこに向かっていくことが、成長であり、大人になることなのだ、というイメージがある。

誰にも頼ることなく、1人で生きていける人間になる。
そうなることで、ようやく一人前と言える。

そんなイメージを持っている人が多いのではないだろうか。

何でもできてしまう完璧な人などどこにいるのか

ところが、実際は、何でもできてしまうような人はいない。
それが現実である。

人間はひ弱な動物で、弱肉強食に自然界においては弱い動物だった。
それでも人間は、協力し合うことでこの自然界を生き延びて、今のような繁栄を手に入れた。

つまり、そもそもが、完全無欠の自立した人間などというものは存在しないのだ。

助け合って生きていくのが人間

こう考えていくと、助け合って生きていくのが人間の本来の姿なのだ。

自分ができることをやって、できないことはやってもらう。
そうやって、持ちつ持たれつの関係を築き上げることによって、人間は生き延びてきた。

それが社会なのだ。

だから、もっと社会を、そして他人を頼ってもいいんだと思う。
誰にも頼らずに生きていくのは不可能なんだ。

全部自分でやろうとしなくてもいい。
そもそも、それは不可能なんだ。

迷惑をかけてもいい

僕自身、誰かに助けてもらうということがとても苦手だ。
迷惑なのではないか?と考えてしまうのだ。

それは、そう教えられたからだ。
迷惑をかけてはいけないと。

でも、そもそも人間は、迷惑をかけなければ生きていけない存在なのだ。

あるところでは迷惑をかけ、また、あるところでは迷惑をかけられる。

それでもまあ、いいじゃないか。
みんな大変な思いをして生きているんだから、困ったときはお互い様なんだよ。

だから、困ったら困ったと言おう。
助けてくれと言おう。

その代わり、助けを求めている人がいたら助けよう。
そうして、持ちつ持たれつで生きていくのが、本来の人間の姿なのだ。

教育が目指すべきは助け合いの精神

困っている人がいたら助けよう。

そういう「助ける側」の視点は一生懸命教えるけれど、「困ったことが起こったら助けてもらおう」という、「助けられる側」の視点については教えていないんじゃないかな。

助け合いの精神というのは、「助ける人」と「助けられる人」がいて、当然みんな、どちらの側にもなるわけだし、ある場面では「助ける側」の人が、ある場面においては「助けられる側」になることもある。

助けられる側になってもいいんだ。
ダイジョブだよ、困ったら誰か助けてくれる人がいるから。
それが、人間なんだから。

そういうことを教えることもまた、「助け合いの精神を教える」ことになるんじゃないかと思うんだけど、どうだろうか?

今は、「助けること」は善であって、「助けられること」は悪だというような教育になっていないだろうか?

助けられる側になってもいい。
そういう教育を続ける事によって、やさしい社会が作れると思う。

まとめ

人は助け合って生きていく。
それが人間というものである。

困ったら誰かに助けてもらえばいい。
困っている人がいたら、助けてあげればいい。

持ちつ持たれつで生きていく。
それが社会であり、それが人生である。

そういう、世界観を持つ人が増えていけば、みんなが楽に生きられるようになるのではないだろうか。